やまけんの出張食い倒れ日記

陽光の国・シチリア食い倒れ見聞記 ミラノで考えたこと

シチリア編が続いているけどここで一息。ミラノに来て、カフェなど廻っている。

こちらに来て、うーんと考え込むことが多い。それはイタリアの食の豊かさということへの感動なのだけど、最初の興奮が過ぎ去って、少しだけ冷静に観られるようになり、考え方がまとまってきたので、書いておきたい。

11時頃、コーヒーを飲もうとバールに入る。「ウン・カッフェー」で一杯のエスプレッソが飲めるわけだけど、どのバールでもその脇には、様々なハムやチーズを挟んだパニーニなどがぎっしりと並べられている。
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観ていると、ビニールに入った巨大なハムの塊をどすんとカウンターにおいて、スライサーで薄切りにし始めた。そのハムの巨大さと、精肉店で使うようなスライサーが、何の変哲もないバールのカウンターに鎮座し、あたりまえのようにスライスしている風景にびっくりした。上記画像を拡大したのがこちらだ。このハム、お腹にかかえるくらいの大きさなのだ。
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スライスしたハムを、暖めたビタパンの上に置き、チーズ二片をのせてくるくる巻いてできあがり。ケースに並べる。このように、バールで食べられる軽食も、だいたいは店で完成させるのがイタリアのバールでの日常のようだ。日本のように、既製品のサンドイッチが並んでいる風景はみられない。そして客は、「あそこのカフェーは旨い」「あそこのパニーニのパンが旨い」という感じで、名指しで食べに行くのだ。

こうしたサンドイッチ類だけではなく、アランチーニ(ライスコロッケ)やショートパスタなどもカフェの奥で作り、店に並べているというのが多いように見受けられる。こうした風景に、非常に豊かさを感じてしまった。

一言で言えば、どの店も個人も、オリジナルであることを求めていて、それを具現しているようにみえるのだ。

日本のカフェでも、店頭でサンドイッチを作っている店はかなりある。しかし、日本ではFCチェーン展開が進んでいるのが普通だろう。その場合、大量生産された具材やバンズが並ぶのが普通だ。だからオリジナリティがない。イタリアでは、バールはあまり派手にFC展開されていないようにみえる。一軒一軒が独立していて、洒落ている。日本の個人経営の喫茶店のようだ。それが、メルカートなどに溢れている多種多様なメーカのチーズ、パン、加工肉などを選んで仕入れ、独自の組み合わせで出しているのだ。

このように、簡単な料理でも自分の店で調理するバール文化に感動したわけだが、じゃあ日本ではどうなの?ということだ。

先に出したように日本のカフェはだいたいがFCだから今ひとつ楽しくないが、カフェという業態自体が日本のものではない。イタリアのカフェを日本のカフェを比べてもしょうがないのだ。カフェは、コーヒーなどの飲み物が飲めて、軽食も食べられる。さっと立ち飲みもできて、座ってゆっくりすることもできる場所だ。日本では同じようなところは少ない。昔ながらの喫茶店という存在といえるだろう。

ただ、喫茶店の食事というのはあまり比較にならない。日本で先述のようなパニーニなどの豊かさに匹敵するものはなんだろうな、と考えた。

なんのことはない。日本にもある!それはご飯だ。白飯とみそ汁と漬け物、そして干物でも卵焼きでも一品つけば、それだけで十分な食事だ。そして、だいたいどこでの家でも店でもオリジナルな味付け(米を選べる、みそ汁のダシや味噌を選べる、漬け物のバリエーションも豊富)を追求できるではないか。

そう考えた途端にすっきりした。

そのすぐ後に問題につきあたった。では、そうしたご飯文化がきちんとイタリアにおけるカフェー文化なみに行き届いているだろうか。そう言われるとなんだかはっきりしないな、というのが感想だ。

日本には、いろいろとご飯を食べさせる店があるが、オリジナリティを発揮しているのはやはり個人経営の定食屋であったりラーメン屋である。コンビニやファミレスの食事は、すべて画一化されている。

そう思ってミラノの町並みを眺めると、たまにマクドナルドがあるが、飲食チェーンというのがあまりないことに気づいた。欧州ではスーパーマーケットはチェーンの寡占化が進んでいるのだが、こと飲食店については、個人経営的な店が圧倒的に多いようにみえる。

この辺に日本の食とイタリアの食を比べた時に、少し後ろめたさを感じるという問題の根があるように思った。

もうすこし考えを進めていくと、キーワードは「家庭料理の消失」ではないか、と思うに至った。もう少し歩きながら考えてみたいと思う。