やまけんの出張食い倒れ日記

日本政策研究センター「明日への選択」のインタビュー抄録の続き。日本の食がこれ以上安くなったら、安全も安心も無くなりますよ。安いものを提供する企業が善だ、と祭り上げるのはもうやめようや。

前回のエントリから続きます。(前回分を読んでないと前後関係わからないかもです。)

 

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『明日への選択』編集部・編  
価格: 735円
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■消費者よりも、生産者・メーカー・流通業者に目を向けるべき

山本 そして、食品価格に対する感覚の狂いと、「消費者は社会の主役」という考え方が合体すると、「消費者のために、食品は安くあるべき」ということになる。最近は新聞やテレビでよく「食」の問題が取り上げられますが、その際、この「消費者のために、食品は安ければ安いほどよい」というメッセージが盛んに流されています。

2007年、世界的な穀物価格の高騰や原油価格の高騰の煽りを受け、パンや麺類や乳製品が値上がりしますということになったときに、テレビに出てくるコメンテーターは「生活が苦しい消費者は大変ですよね」などと言っていた。しかし、これはまったく誤ったメッセージです。だって、一番苦労しているのは消費者ではなく、農業や食品製造業の現場ですよ。特に酪農をはじめとする畜産農家は飼料が高騰してとてもやっていけない状況になった。それなのに価格は小売や流通が支配しているので上げることができず、離農や夜逃げが相次いだ。そのことには全く触れないで、いつもいつも消費者だけが苦労しているという情報だけが流されるのは、著しくバランスを欠いている。

日本はもう十分に消費者中心の社会になっているのだから、今一番言及されないといけないのは、農業の現場やメーカーや流通業者の現状の厳しさだと考えます。

さらに、政府の施策は今、消費者の方を向いているように見受けられるけれども、その方向性は大間違いだと言いたい。例えば、福田元首相は昨年の年頭所感で食品表示問題を取り上げ、「これからは消費者主導、生活者主導の世の中にしていきたい」という趣旨のことを述べました。けれども、私は官邸のホームページでそれを見た瞬間、「逆の方向に向かなければならないのに、何を言っているんだ!」と、本当に怒りを憶えました。それはどういうことか。

昭和三十六年(一九六一)制定の農業基本法に代わり、平成十一年(一九九九)に新たに制定された「食料・農業・農村基本法」という法律があります。そこに「消費者は、食料、農業及び農村に関する理解を深め、食料の消費生活の向上に積極的な役割を果たすものとする」(第十二条)と、消費者の責務が定められているのをご存じでしょうか。おそらく誰も知らないと思いますが、ひっそりと消費者の役割を規定しているのです。しかし、今の世の中の流れは明らかにこの法律に違反していますね(笑)

消費者は「食の安全・安心」や食料自給率の向上ということに関心を持つようになったと言われているけれども、それは食品偽装事件などが発生した時だけです。ほとぼりが冷めれば「食の安全・安心」なんて忘れてしまって、スーパーが「円高還元セール」とかをやると、安い輸入食品に群がる。ましてや農業や農村のことなんて想像すらしていないと思います。

今の日本では、モノを買うときには小売店で買うことがほとんどで、それを作った生産者の顔を見ることがない。ですから、消費者は商品がこれまでより安く買われると困る人がいることを実感できなくて、安さばかりを求めてしまうのも当然かもしれません。しかし、だからこそ政府が率先して、適正な価格が守られなければ、結局よい食が失われ、消費者にツケが来るのだということをきちんとしたメッセージを送らなければならない。でも、それとは反対のことをやっているから、私は怒っているわけです。

 

■安い食品の裏側

―― 消費者が、そうしたことをきちんと考えられるようになるためには、何が必要なのでしょうか。

 

山本 そうですね、まず度を超して安すぎる食品には、理由というか、何か裏があるということを知らないといけないと思います。

例えば、ある大手スーパーが「二九八円弁当」というのを売り出してテレビなどでも話題になっていますけれども、そういった安い弁当に使われている食材はどこから来たのかと考えてみる。「一括調達や効率的な生産で安さを実現」などと説明されるだけで自給率なんてまったく出てこないけれども、国産のものはお米ぐらいで、他の食材は多くが輸入物ではないでしょうか。

―― 安全面ではどうなんでしょうか。

山本 それなりの企業が販売していますから、おそらく法的に義務化されている安全性は確保しています、ということになるでしょう。でもこれまでの歴史で問題を起こしてきた食品は、問題化する前はすべて合法だったということを忘れてはならないと思いますよ。

『日本の「食」は安すぎる』という私の本にも書いたことですが、食品加工業界にいる友人は、コンビニやファストフードなどで食品を見るときには、必ず頭の中で原価計算をやるというのです。そして自分が基準値として持っている「ヤバイ線」を越えて安すぎるものは絶対に買わない。普通よりも安いということはどこかに皺寄せがいっているからで、それはだいたい人体に影響がある、と。

私はその話を聞いてから、安い食品には一切手を出さなくなりました。ここのところの景気後退で食費を節約しようと一〇〇円台のバーガーや、いわゆる298弁当のような超低価格弁当がよく売れているようですが、私はとても食べようという気にはなれない。原価のことを考えれば、そうした価格でよい原料を使用できるはずがないからです。

先ほどの話ですが、そうしたものは食品衛生上、定められている基準は全て満たしているはずです。いまや企業の行動は衆人監視されるようになりましたので、ミートホープのようなことはもう出来にくい。またよく消費者が不安を抱く添加物についても、法的な基準値以下に抑えてはいるでしょう。つまり「この食品は食べても問題ない」とされる内容になっている。けれども、それは巧妙にギリギリの線上で、最低限の「安全性」が確保されているにすぎない。そうしたものを組み合わせて一つの食品にしているわけだから、非常に複合的な添加物の塊になっているだろうと思います。それを継続して食べることのリスクは、まだよくわかっていないわけです。自分が実験台になりたいということでない限り、勧められませんんね。

 

■「食の構造」の頂点に立つ消費者

山本 さらに、安すぎる売り方をしている事業者は、生産者やメーカーを叩いてその価格を実現している。このことは一番知ってほしい問題です。

少し前に、ある大手スーパーが「価格にもっと敏感であるべきだと反省しました」という全面広告を新聞に出しました。彼ら自身は「頑張ってます。消費者の味方です」というようなメッセージを出しているつもりなんでしょう。でも、こんな欺瞞はない。なぜなら彼らは生産者、メーカー、流通業者に犠牲を強い、絞り尽くすことによって、値下げを実現させている。消費者の前ではいい子ちゃんぶっているけれども、彼ら自身は痛くもかゆくもないのです。

日本では、食べ物の値段を生産する側が決められない土壌があって、消費者に接するスーパーや外食などの買い手が強過ぎるのです。その食品を作るのにどれだけコストがかかっていても、スーパーのバイヤーが「うーん、やっぱこの商品は一二八円でしょ」といえば、それで値段が決まってしまうことが多い。そんなの断ればいい、と思うかもしれませんが、断ると今後の取引に影響が出る可能性もあるから、たいていの場合は承諾せざるを得ない。毎日食卓に上るような、青果物、漬物、納豆、豆腐といった日配品は、まず店頭価格ありきで、店舗の利益をきっちり引いた上で納入価格が決定され、逆に生産者側の採算は加味されないというのが普通です。

 

―― それも結局は、消費者が安い食品を求めた結果だと。

 

山本 そういうことです。低価格に慣れてしまった消費者が安い食品を求めるから、スーパーは安い価格を実現しようとして、輸入物を使ったり、生産者やメーカーに圧力をかけたりする。

このように食品が製造されて消費者の手に渡るまでの連関を「フードチェーン」と言うのですが、このフードチェーンという「食の構造」の中で最も力を持っているのは、間違いなく消費者であり、「消費者が求めるものを消費者が求める価格で実現する」ということが至上命題になっているのです。

このような構造の中では、メーカーは自分の身を守るために何らかの方策をとらざるを得ません。例えば、それまでは使用していなかった添加物を使用して賞味期限を延ばしたり、素材のレベルを落とした穴埋めとして各種調味料で味を添加したり。それでも耐えられなければ、廃業するか夜逃げするか。あるいは食品偽装に手を染めてしまうところもある。

食品偽装については一言付け加えておきますが、言うまでもなく食品偽装は犯罪行為であり、法に基づいて罰せられなければなりません。ただ、こうした食品関連の偽装・虚偽行為を最終的になくしたいと考えるのであれば、消費者の側が必要なコストは正当に支払うということがどうしても必要です。事件を起こした企業の糾弾や、管理の仕組みや法整備といったことだけを求めていては、また必ずどこかに皺寄せが出てきて、同じような犯罪に手を染める人が出てくるでしょう。

■国産を「買い支える」消費者が出てこなければならない

―― とはいえ、この経済危機です。現実に食品が高くなるのは困るという人も多いと思うのですが……。

山本 もちろん、エンゲル係数が四〇%以上になってしまっているというご家庭の方が、「困る」と言うのは当然でしょう。

しかし、日本ではエンゲル係数はもう長いこと二五%以上になっていません。昭和初期には五〇%以上だったエンゲル係数は、九〇年代にはいり二五%台に突入し、近年は二二%前後という低い水準で推移しています。つまり、おカネの使い道は、主に食べ物以外に振り向けられているのが現実で「食品の値上げが困る」というのは実におかしな話なのです。

ちなみに、家計に占める食費は減少の一途を辿っていますが、電気代と携帯電話による通信費用は右肩上がりになっています。特に後者はもの凄いことになっているはず。「食費が大変で」という前に是正すべきところはあるはずです。

どういうわけかこの国の消費者は、節約というと真っ先に食費を削ろうとする。携帯電話には月一万円近く支払っているのに、日々口にする豆腐や納豆や調味料には十円の差を大きく感じる。本当に不思議な話です。人は食べなければ生きられないし、毎日食べているものは私たちの身体をダイレクトにつくっている。そんな大事なものに投資をせず、十円単位の差額をケチってレベルの劣る食品を選択し続ければ、十年後、二十年後に身体に何らかの影響が出てくることは十分予想できる話でしょう。

それに、食費を浮かせるとか節約するとか簡単に言いますが、先程言ったように、人間は消費者と生産者という二つの顔を持っている。不景気のもとでは、消費者も苦しいけれども、ものをつくる人、運ぶ人、売る人も一様に苦しい。消費者を立たせれば、生産者・メーカーが潰れる。それが続けば、安心・安全な食品は手に入らなくなるし、農業・農村は崩壊してしまいます。

それでもいいというのが、この国の国民の選択であるならば、それも仕方がない。けれども、やはり農業・農村は大事で、自給率がこんなに低いようではダメだというのであれば、農村部に住んでいる人たちが「うちのばっちゃんがあんなに苦労して作っているんだから、そんな安く買ったらよくねえべや」と、少しくらい高くても地元の農産物を買って食べているように、今こそ消費者は国産を「買い支える」という行動に出なければならない。

例えば、皆さんがスーパーに行って、三個一パック九八円の納豆と、国産大豆を使用した一四八円の納豆とが売られていたら、一四八円の納豆を買ったとする。「五〇円も高いじゃないか!」と思うかもしれませんが、三人家族が平日の朝ごはんに毎日納豆を食べたとしても、五〇円×二十五日程度で差額は一二五〇円です。喫茶店で三〇〇円前後のコーヒーを四回節約すれば、国産大豆を使用した納豆を買えるし、それは日本の農業を元気づけることにもなる。価値としてどちらのほうが高いのか、ということです。

■「経済の地産地消」を

―― つまり、国産の農産物や食品を買うことは、国や地域の経済を循環させ、ひいては消費者にも還元されることになるわけですね。

山本 それを「経済の地産地消」と言うようですが私は非常に賛同しています。

今、お店に行って見ていると、一玉二五八円の青森産ニンニクと、一ネット十個入り二五八円の中国産ニンニクとがあったら、消費者はみんな中国産のニンニクを買って行く。確かに、一ネット二五八円の中国産ニンニクの方が「安い」「お買い得」だと思うのはわかる。でも、安いと思って中国産を買えば、そのおカネの大部分は中国へ行ってしまうわけです。一方、「ちょっと高いな」と思っても、青森産のニンニクを買えば、そのおカネは、流通段階と生産者段階で落ちて、どこかの時点でこの日本の中で、あるいは地域の中で還流されて自分の所に戻ってくる。流通業者も生産者も、一方では流通、生産の活動をしながら、他方ではそれで得た所得を消費にあてているわけですから。

逆に言えば、輸入食材で安いものを作って売っている小売店は、日本の富を海外へ流出させ、日本の国力を低下させるのに加担しているとも言えるんじゃないか。その安い食品を買う消費者が一番悪いということですが……。

いずれにしても、「新鮮で、安全で、おいしい食品を、安い価格で」などとムシのいい話は世の中にはない。安全でおいしい食品を食べたいなら、必要なコストはきちんと負担する。日本の消費者がそういう成熟した消費者にならない限り、食料自給率の向上も、農業再生も、そして食の状況がよくなることもあり得ないと思いますね。

(了)

 

以上、原文からちょっと加筆・修正しました。二年ちかく前のものなので、ちょっと時代にそぐわない内容もあるかも知れませんが、、、今のほうがもっと状況悪くなっているように思えます。