2008年8月から所有していた短角牛の母牛を、とうとう手放すことにした。15年に及ぶ短角牛オーナーライフが一旦、終了します。岩手県の関係者のみなさまに深く感謝。
2007年の2月、岩手県庁の佐藤ヨシヒコさんが呼んでくれて、二戸市で農業関係者向けの講演にいく。どうせ行くなら、とその前後で近隣のツアーをヨシヒコさんに組んでいただく。この流れで山形村にも行ったわけだが、短角牛の素晴らしさを識ったところで、二戸市の繁殖農家の牛舎にて、牧野組合が行っていた短角牛オーナー制度というものがあることに触れる。
■岩手県北を巡る旅 浄法寺・短角牛の素晴らしき世界を観た!
https://www.yamaken.org/mt/kuidaore/archives/2007/02/1184.html
https://www.yamaken.org/mt/kuidaore/archives/2007/02/1186.html
「俺もオーナーになりたい!」
「あ、ゴメンナサイ、二戸市在住の農家でないとオーナーにはなれないんです」
と杉澤君。でも、彼はこう考えたのですね。「まてまて、色んなところに記事を書いてるやまけんが牛を持ったら、まだまだマイナーな短角牛の宣伝をしてくれるかもしれないぞ」と。そうして僕が帰った後に根回しをしてくれて、「名目上のオーナーになれますよ」と連絡をくれたのだ!
そうして晴れて2008年7月、僕は浄法寺の大清水牧野にて、牛のオーナーとなる。彼女の名前はひつじぐも。
翌年、このひつじぐも一頭目の子牛として、メスの子牛が生まれる。普通、メスが生まれると母牛になれるので、市場で販売することを勧められた。しかし、僕は「牛を肉にする」という一連のことを体験してみたかったので、肉牛にするという決断をする。しかし、会ってみるととてもとてもとても可愛い!
「この子に幸多かれ」という意味で「さち」と名づけたのだが、「でも肉にしちゃうんだよなあ、、、」という懊悩に苦しむことになる。まだ自分が所有する牛を肉にするというのが初めての体験であったので、ひとつひとつドキドキしていたことを思い出す。
初志貫徹を、ということでさちは肥育農家の漆原さんに預けて、肉牛として肥育してもらうこととした。さちを30ヶ月齢ほど肥育して出荷する時は、杉澤君に頼んでと畜場まで連れて行き、分かれたときの悲しさは忘れられない。そして、さちが肉になって再開し、その肉を食べたときの多幸感も忘れられない。さちのお肉は、本当に伝説になるほどにすばらしいものだった!
ご覧下さい、海外の肉牛関係者に会うときに「これ、僕の牛なんだよ」と見せると、必ず顔色が変わって「素晴らしいな!」と言われていた、さちの肩ロース。これでA2で評価されるんだぜ、まったく。
「伝説」と書いたのは自画自賛ということではなくて、本当にこのさちを味わってくれたシェフ達から「あの牛のお肉は素晴らしかった、、、」といまでも遠い目でいわれることがあるのだ。
このさち以来、ひつじぐもは子牛を毎年生んでくれたのだが、、、ひつじぐもはとても乳量が多く、生まれる子牛がすべてデカいという素晴らしい素質をもった牛だった。それゆえのトラブルなのだが、お乳が出すぎるため子牛が飲みきれず、乳房が詰まってしまって重度の乳房炎で乳首が潰れてしまうという症状を持ってしまっていた。6頭の牛を産んでくれたところですべての乳首が潰れてしまい、母牛としての継続が難しいことになった。
不幸中の幸いは、第三子にまた女の子を産んでくれていたことだ。その名は「いなほ」ちゃん。
彼女を後継の母牛とすることにして、ひつじぐもは経産牛としてしっかりおいしくいただいた。
さて、個体識別番号を調べ直したところ、このいなほが生まれたのが2011年3月6日。最初に子を産んだのが2013年の春なので、そこからちょうど10頭生んでくれたということになる。短角牛の繁殖牛は10頭前後で退役となることが多い。黒毛はもう少し長く生ませると思うが、短角の場合は乳量が減るなどの理由で、10産以上すると子牛が小さく育ってしまうことが多いからだ。黒毛なら最初から代用乳で育てるので関係ないのだけれども。
さてこの間、僕は生まれた牛を肥育農家さんに預けて肉牛にしてもらい、飲食店やブログ読者のみなさんに販売するということをしてきた。実に充実していたし、普通の人にはまずできない体験をさせていただいたわけだが、これは色んな人に負荷をかけることでもあった。
通常ルートでの屠畜と加工ではないので、イレギュラーな処理をさせてしまうことが多い。例えばロースはドライエイジングをしたいため「骨付きで一本そのまま、真空をかけないで布で包んで東京まで送って下さい」というオーダーをするのだが、「いや、それはできませんよ」と言われてしまう。なんでできないの?となるのだが、動かない。そこで、かなり無理矢理なルートから話しを通してもらうということを何度もやってきた。
そのせいもあってだろう、「もう来年からは山本さんのと畜は受けたくないよ」と言われるようになってしまった。ご迷惑をおかけしました、、、
そんなこんなで、実は岩手のよく識る人たちには伝えていたが、内々に「今年でオーナーを辞めよう」と考えていたのである。ということで、ここからが本題。山長ミートの槻木会長に預けてあるいなほに会いに行きました。
二戸駅前のロータリーは、道路のアスファルトがみえないくらいに雪が積もっている。「まあでも少ない方だ」とお迎えいただいた会長が仰っていた。あ、そうそう。産地ツアーで来た人達は驚くだろうが、このロータリーの出口、とうとう信号がつきました(笑)
僕の短角牛ライフとは切っても切り離せない、山長ミートさんへ。週刊アスキーの誌上通販で「短角牛一頭まるごと販売」をやりましたねえ。あの時はすぐさま売り切れてしまって、もう半頭追加したのでしたっけ。
ひつじぐももいなほも、当初は牧野組合のオーナー牛舎で世話してもらっていたのだけれども、牧野組合がオーナー制度を辞めることとなり、地元の繁殖農家に預かってもらっていた。いまは、その繁殖農家を山長ミートの槻木会長がやってくださっている!
会長、几帳面な性格でいらっしゃるので、しっかりと記録をつけながらいなほとその子達のことを面倒見てくれてきた。
「じゃ、いなほに会いに行きますか。」
と、雪の降る道を一路牛舎へ。
いなほは、元気でした。やっぱり、といったらなんだけど、美しいな。
牛の角には子牛を生むごとに年輪のように環が刻まれるらしくて、この数を数えると経産数がわかるらしい。
でもここで「あれーーーーーーーっ?」と。
「いなほの腹、でかくないですか?これ、子供いますよね、、、」
「うん、そうなんだ。まあ、放牧してまき牛(雄牛と一緒に放牧させること)してるから、そりゃついちゃうよな。」
いや会長、今年でいなほは経産肥育して肉にするんじゃなかったでしたっけ、、、
「んーそうなんだけどさ、やまけんさんに相談なんだけど、この牛、俺に売ってくれないか?」
そう、実はこのいなほちゃんを経産肥育してお肉にするところまでやってみたかったのだけれども、会長はこのいなほの血統の牛を保全していきたいという気持をもたれているようだ。瞬間、どうしよう、、、と思ったが、短角のことは短角を育てる人が決めた方がいい。
「わかりました、お譲りします。」
この瞬間、僕の短角オーナー人生はいったんピリオドとなりました。
いなほちゃん、これまで本当にありがとう。ただ、まだ完全な終わりではない。
「会長、このいなほを肥育して肉にしたときは、肉を買わせてください。」
「あー、もちろんだよ!」
そう、それが本当の一区切りだ。
さて、山長ミートが営む、全国的にも珍しい短角牛専門の焼肉店「短角亭」へ。
右が僕を岩手へ誘った佐藤ヨシヒコさん。左は二戸市の職員で僕を短角オーナーにしてくれた杉澤君。
奥が二戸市の短角専門肥育農家で、東京の飲食店から大人気の漆原さん。手前は県職で短角をずっと押してきた峠館さん。
そして槻木社長と会長。むかしは専務と社長だったのが、そのままスライドである(笑)
この日はヨシヒコさんが秘蔵していた熊肉とエゾジカ肉からスタート!
久しぶりに岩手のツキノワグマをいただいたが、やはり最高に美味しい!
正直に言うと、牛肉より断然おいしい肉である、、、年に一度はいただきたいものです。
ここからは短角オンパレード!
ブレててスミマセン、どちらも「岩手革」であつらえてもらった、短角牛の皮でつくったお財布。
下の茶色のが、僕の牛「大嵐」くんの皮で作ったもの。ヨシヒコさんが買ってくれたのだが、使い込んでるな~!
最高の仲間と最高の夜!
「やまけんさん、オーナーで無くなっても、二戸との縁は切らずに、ここにも来て下さい」と会長。
もちろんですよ!
岩手、二戸、山形町、岩泉町、そして短角牛との縁は人生通じて切れません。
これまで僕の短角牛に関わっていただいたすべての皆様に感謝申し上げます。そして、これからもいわて短角牛をよろしくお願いいたします!