所沢ダイオキシン問題に思う

2003年10月17日 from 日常つれづれ

 新聞各紙で報道されている通り、標題の事件について、最高裁が農家側を敗訴とした二審判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した。この報に接した各メディアから「報道の自由が規制されることを憂慮」する旨のコメントが出ているが、これは考えさせられる問題だ。

 どの世界でも同じとは思うが、業界内部の常識とそれを取り巻く一般社会の常識にはズレがある。お茶を「野菜」と表現することは、農業関係者からすれば全くあり得ない話だ。しかし、一般社会からすれば、「農産物にかわりはないでしょ?」と言われるケースもあるだろう。

 お前はどちらに立つのか、と問われた場合、私ならどうするか。基本的には、この世の農業を栄えさせたいと考える自分としては、テレ朝に非を求めざるを得ない。私の価値観からすれば、あの報道内容は明らかに適切ではなかった。また、所沢には生産者の友人が沢山いる。実際そうした友人が出荷できず、苦労した場面を直接みてもいる。当時はテレ朝そしてニュースステーションの顔といえる久米キャスターに嫌悪感を覚えたものだ。

 しかしこの判決が言論弾圧や報道規制が強化されるという結果を生み出すのは是としない。事件は、報道に関わった個人の判断能力の欠如から発生しているはずだ。そうした個の判断能力やもろもろの要素を、社会的・構造的な規制で改善することは不可能ではないだろうか?問題は別のところに有るとしか思えない。

 直截に言ってしまえば、あれだけインパクトの大きい報道を行うに足る裏付けを、合理的に獲得する能力を有していないならば、報道などしてはいけない。それが原則だろう。その原則すら守れないようならば報道などすべきではないのではないか?ということだ。無論、「裏付けはとれていた」という認識やデータがあるならそれは結構。ただ、社会的判断としてそれが「不適切」とされたのであれば、責任を問われるのは当然のことだ。

 そういう覚悟を持ったメディア関係者はどれくらい居るのだろうか。

 ということを考えた一件だった。今後どのようになるのか関心深いテーマだ。
 ああ、イカンイカン。ついマジメになってしまった!今日は家で男3人ダメダメトリオの宴会である。