受動的な「消費者」にこの本を読んで欲しい。 「雪印100株運動」

2005年1月18日 from 食べ物の本

 山形編の真っ最中だが、「地域」や「生産者との関係」といったキーワードが出てくることに反応していろんなメッセージをいただいている。僕のblogを読んでくださっている方の中でも、おそらくそうした地域や生産・流通の問題に直面している人や、それに関心を持っている人が多いのだろう。そして、僕が発した言葉の中で、 「買い支える」 という言葉は特に関心を持ってくださっている人が多いようだ。

 では、逆に「不買」という行為をどのように考えるか。

 何か事故が起こったり、社会的責任を問われることが発覚した企業の商品を「買わない」というのは、購買する人が行うことが出来る最も直接的かつ効果的な方法の一つである。不買が長期に渡れば当該企業は体力を消耗し、最悪の場合倒産、解散ということもありうる。つい最近も立て続けに食品関連企業でそうした事例がでたことをご記憶だろう。

 しかし、「不買」は当該企業に対する驚異とはなるが、「世直し」に結びつくだろうか?必ずしもそうではないだろう。ある企業が埋めていた商品がごっそりなくなった後は、他の企業がそこを埋めるはずだ。つまり、大局的にみると、勢力地図が少々塗り変わっただけということになってしまうことが多い。
 もちろん、消費者の行動は企業にも記憶され、同じことを引き起こさない処置がなされるだろうが、所詮それはビジネスベースでの話である。

 この問いかけに答えは存在しないと思うのだが、全く驚きのアプローチから一つの建設的な方向性を提唱した運動がある。それが、この本に書かれている「雪印100株運動」だ。

雪印100株運動―起業の原点・企業の責任
やまざき ようこ 大石 和男 榊田 みどり 岸 康彦 田舎のヒロインわくわくネットワーク

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 戦後最大規模の集団食中毒を引き起こし、ほぼ解体といってよい状態に陥った雪印グループ。消費者は雪印商品から離れ、不買運動が続いたのはご記憶だろう。

 しかし、雪印は超巨大な組織体である。原料となる生乳を生産している酪農家の数も合わせると、数万人規模の組織体である。事件を引き起こした部門は本当にその責任を追及されるべきであったが、しかし組織すべてが悪の論理で動いていたわけではないのも事実だ。しかし、不買運動はそうしたことに関係なく、すべての雪印商品を排斥する方向へと動いた。

 これにより、離農した酪農家の数は計り知れない。彼ら彼女らは、生乳を引き取る乳業メーカがなければ出荷が出来ないのである。野菜と違い、生乳は生産・流通に莫大な設備が必要であり、今日はあそこ、明日はこちらというように機動的に出荷を変えることが出来ない産業だ。それがブツリと切られてしまうということが起きたわけである。

 当然、酪農家は怒る。怒ってもどうにもならないが怒る。その中で、「これではいけない」と思う女性たちが現れるのだ。

「雪印を糾弾することは簡単だが、何も産まない。それよりも、私たちが雪印にもっと近づき、いい方向に共に歩むことは出来ないのか?」

酪農家を含む農村女性ネットワークのメンバーがこうして立ち上がり、単位株になるまで数人のグループを組んで株主となる運動を興した。それが「雪印100株運動」だ。晴れて株主となった彼女らは、すっかり萎縮している雪印社員に対し、時に厳しく、時に歩み寄りながら対話を続けていく。そんな話である。サブタイトルに「企業の責任」と書かれているが、実は「消費者として何ができるか」を具体的・明快に示した書ではないか、と思う。

 雪印の問題にはまだケリがついていない、と思う人も多い。僕は乳業が専門ではないので、あまり多くをここで語ることはできない。しかし、この運動は乳業ということよりも、現在の日本における生産・流通・消費の流れの分断を見直すためにも重要だと思う。

「消費者」という言葉は、ものを消費する立場ととれる。非常に受動的ではないか。しかしながら消費者が「権利」を謳うと、それを保護する観点から世の中が動く。この「消費者主体」という世の中の原理は、長きに渡り我々が獲得した社会的構図だ。

しかし、現在はそれが過ぎているように思う。消費者が偉すぎて、それを重要視するあまりに、色んな部分で柔軟なことが出来なくなっている。美味しいものがリーズナブルに食べられないのはなぜか?それは、過度に衛生的であることや安全であることを求める消費者の声が反映された結果だということをきちんと捉えなければいけないだろう。

そして、「消費者」から「生活者」という言葉があるように、不買をするだけではなく、その一方で当該企業や、それを取り巻く業界、ひいては社会がより良くなるためには何を働きかければいいのか、ということを考えるのが、重要なことではないか。

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 さて本書は複数人で書かれた本である。この著者の中に岸 康彦さんという方がいらっしゃる。岸さん、いや岸先生は僕の大恩人だ。日経新聞の論説委員を長く務められ、日経新聞の農業記事のグレードの高さを保持してきた第一人者だ。

 恩人というのは、僕が大学生時代に書いた「僕と畑とキャンパスと」という論文を、ヤンマーの主催する学生農業懸賞論文コンクールで、優勝に推してくださったのが岸先生だからだ。受賞後、「君のセンスがいいよ、センスが!」と満面の笑みを浮かべながら声をかけてくださったのを忘れられない。賞金100万円は、大学院への進学費用となった。

 その岸先生が日経新聞を去られた後、特に最近の日経の農業関係記事の質はがた落ちしている。正確な日付等を失念してしまったのだが、先日、日経を読んで驚愕した。農業に対する投資ファンドの記事か、農産物のトレーサビリティ関連の記事のどちらかだったと思う。その中に、こんな一節があったのだ。

「有機野菜の水耕栽培もしており、、、」

 この表現が明らかにおかしいということを理解できる方がいらっしゃるだろうか。食品に「有機」という言葉を用いる時は、JAS法で制定された定義を守らなければならない。そしてJASで規定された「有機」の基準では、土を使って栽培されたもの、つまり「土耕栽培」でなければ有機とは認められない。これは、有機農産物が、土壌に堆肥などの有機物を投入することで、生物学的な循環を創り出し、土壌環境の継続的な向上に資するポリシーを内包しているからだ。 つまり、「水耕栽培」は「有機」ではありえない。

 正直、日経新聞の当該記事を書いた記者と、それを校閲段階でチェックできなかったデスクは、本当にレベルが低いと実感した。実をいえば数年前から、日経の農業関連記事のレベル低下は際だっていたと思う。唯一、2年前まで米問題を担当していた某記者が、よく勉強し、産地に足繁く通い、素晴らしいパフォーマンスを発揮していたのだが、今や彼も他部署に居る。

 本題から逸れてしまったが、岸先生がいらっしゃった頃はこんなことは無かったはずだと思うと、寂しい。日経新聞、頑張ってください。

 それと、もう一人著者に親友がいる。大石和男君だ。彼は京大農学部の助手をしているセンセイである。そして、学生時代からの農業ネットワーク仲間である。彼については、忙しい中、先日僕を訪ねてきてくれたので違うエントリで紹介したい。

いずれにしろ、この「雪印100株運動」、いい本だ。食い倒れの傍ら、読んで頂きたいと思う。